ともみの部屋

仕事をしながら世界を旅する私の8ヶ月間

お母さんが金髪で、お父さんが黒髪だと【チャングー・バリ】

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お母さんが金髪で、お父さんが黒髪だと、子どもは瞳の色が黒くて髪が金髪の子になる、可能性がある。
 
お母さんが黒髪で、お父さんが金髪だと、子どもの髪色は金で瞳はグレイ、まつ毛だけは真っ黒の子になる、という可能性がある。
 
つまりはこれは国際結婚の結果のことを私は指しているのだと思うけれど、そんなことは今までも知っていたし、なんとなくそんなことを高校生の理科の教室でも言っていた。
 
でも友達になったひとの子どもがそうだと、やっぱり感じるものがある。言葉は何を話すのか、あなたたちは今どの国に住むことを選択しているのか、着るものは、履く靴は、通る道は、住む家は。別にこういったことは今までも世界のあらゆるところで起こってきたことだろうし、別にいま最近はじまったことでもないので、珍しい、ということをここで言いたいのでは決してない。
 
でもやっぱり改めて、日本という国は不思議なものだな、と私は思う。どこへ行っても同じことばを話すひとがいて、そこは日本で、日本の母と父を持つひとが大多数を占める。
 
小さい頃すこしだけ暮らした中国・上海はどうだっただろう。大学時代に数ヶ月だけホームステイしたカナダ・バンクーバーはどうだっただろう。もう少し多様なひとたちが、多様なごはんを家庭で食べて、もうすこしだけ違うものを受け入れていく覚悟のような柔らかさがそこにあったのではないかと思う。
 
小さい頃から、ひとと同じことをするのを好まなかった。高校生の頃だって、先生に「あなたはひとと違くありたいのか」と謎の説教を受けていたこともあった。でも心のどこかで私はみんなと同じであることを望んでいたし、何度も自分で言うように私は「みんなが今いいと思うもの」の集合体である「流行」の追っかけウーマンであるからして、「ミーハーである」という属性をまったく隠したくないし、いまもこれからも私はミーハーでいたいと心の奥底で決めている。
 
ミーハーであることと、ミーハーになることはたぶん意味合いが異なる。私はミーハーにはなりたくないけど、ミーハーではありたい。ただのことば遊びに聞こえてくる。
 
何の話かというと、ミーハーでもなんでもまぁ別に構わないのだけれど、「みんながいい」と言っていることや、「みんな」って誰、っていうことへの疑問符はいつでも自分の中で持っていたいということだ。または、「みんな」という存在を認めていることは大前提であるとして、「みんな」と同じであることをまったく意識のそとへ追いやって暮らしていけること。
 
違うものを違うと認識するよりもっと前の近しい場所で、違うものは「ある」のだとただ無意識下で受け入れていられること。その上で自分の暮らしを築いていけたらすごくきっと、たぶんいい。なぜならそこには「比較した幸せ基準」があまり濃く存在せず、「私たちは私たちで」という気持ちで生きていけることが多分にあると私はおぼろげに感じているからだ。
 
ここまで私が断言できないのは、今バリのチャングーエリアのカフェの中で、お母さんが金髪で、お父さんが黒髪の家族と出会って話をしたばかりの瞬間にこれを書きはじめてしまったから。なんとなく思ったのだ。まだ生まれたばかりの彼女を見て、すごくかわいいと思ったし、そうねあなたがお父さんで、あなたがお母さんならば、この子はそうなるわよね、って。
 
 
店のそとを見ると、いろいろなひとが通り過ぎていく。バイクに乗った2人の男性、サーフボードを持った金髪の夫婦、金色のストラップ輝くおしゃれなビーチサンダルを履きながら借り物の自転車に乗る女性、体の3倍はありそうな私には名前の分からない植物を、背中に乗せて移動するひと。犬、マッチョな男性、マッチョな女性、フツーツを抱えたジムのオーナー。
 
(マッチョやジムという単語がわりあい多く出てくるのは、私の宿泊しているAirbnbの部屋が、じつは1階がジムで3階がヨガルームで、庭にはプール、1階にはベジカフェが完備という謎の豪邸だったからだ。毎日上半身ハダカの金髪男性を見ているのは別に気分が悪いことではない。朝自分の部屋の目の前をそういったひとたちが汗をかきながら通り過ぎていく音で目がさめるのは、初日はなんともいえない気分になったけれど《女性もしかりだ》)
 
でもやっぱり、この街は前評判通り、欧米人のつくった、欧米人のためのヴィラや豪邸が立ち並びつつあるエリアだった。バリ出身と思われるひとたちが、毎日「トトン、トトン」と音を立てて屋根の上に登って豪邸を建てている。海へ行けばサーファーが海の彼方で波を待っているし、小さいけれど田んぼと夕日がきれいな町並みを歩くと、そういった欧米人のひとが好みそうなバーやレストラン、ショップやカフェが点在する。
 
ここよりもう少し、バリの内陸部へ行こう。この場所には、あと数日でも数週間でももしかしたらいられるのかもしれないけれど、「あともうすこしいたかった」そう思えるくらいが、旅立つにはたぶんちょうどいい。
 
恋愛と一緒で、旅も深入りしないほうがいいタイミングとか、日は、あるのではないかと私は思ったり、思わなかったり。